ゲロゲロ日記orz

ツイッターで毒に当たってお気持ち濁流マーライオン。読んで不快になっても100%自己責任だ。ゲロは責任を取らない。

宮台真司の指摘ー「感情の劣化」のこと

ネット右翼」と呼称される現象がある。あれは「オフラインでは右翼ではない」「オンラインでは右翼的な言動、攻撃性を非常に強く示す」という含意があったと思う。

 

つまりは、ネット上での言動はオフラインでは決して示すことがなく。

一種のマスク/キャラクターだという切り分けになっていたと思う。

 

匿名性が担保された空間でしか言えないような偏見をまき散らしている無責任さと卑劣さまで含めての軽蔑と怒りが籠もった言葉で、私は一面をよく表していると思った。

 

ただ、「ネットの闇」などという言葉にもそのニュアンスがあるけれど、ネットは何か、異次元の空間のように社会的には想像されがちで、そこからヘイト行動がスクラムとして現実へと越境してくることは想定されてもいなかったんだろう。

 

今では、そのような現実への共通了解はないだろうと思う。

 

別に政治的なイシューの話だけでもない。小金井でストーカーに刺された地下アイドルの女性は、ずっと前からストーカーにオンラインで危害を予告され続けていた。

 

ネットの向こうにははっきりと実在した人間がいる。

ネットの言葉は全くオフラインの世界と等価なのである。

 

このことは、なんと未成年の頃から執拗な誹謗中傷に晒され続け、民事訴訟を提起して和解となった女性のケースでも改めて覚知されたところだと思う。

 

また、京都精華大学の教授が、自分が長年のファンだった女性歌手が安倍首相の退任に当たって同情的なコメントをしたところ、「早く夭逝するべきだった」と書いてしまい、謝罪と、大学からの声明につながるという状況にもなった。

 

抑止力が働いたとしても、決定的に壊れてしまったものはあるのだ。

「言葉」である。言語ルールが攪乱されてめちゃくちゃなことになりつつあるのだ。

 

社会学者の宮台真司の問題提起が大変興味深かった。

彼は「感情の劣化」という枠組みを議論に提供してきた。

振り返ってみると本当に随分と前からだった。

 

宮台真司ネトウヨを語る「あれは知性の劣化ではなく感情の劣化だ」

lite-ra.com

読んだ当時は「対ネトウヨ」という枠組みで読んでいた。

 

そのため、差別の背景となってきた過去の歴史のことや人権侵害のことについて、もっと啓発的な枠組みを提示するほうが、喫緊なのではないか? と正直なところ、やや迂遠な印象を受けないでもなかったのだけれど……。

 

しかし、コミュニケーションの枠組みという、人権論とは全く違った角度から切り込んだ彼の視点は、実はさらに広範な問題提起の枠組みを提供していたことに、2020年の今になって気づかざるを得ない(遅いですね。苦笑)

 

「真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢」-。

「最終的な目的が埒外になってしまい、過程におけるカタルシスを得ようとする傾向」-。

 

これが、宮台の指摘なのだが、ネトウヨどころか、オンラインで展開されていたフェミニズムにも、この傾向が完全に当てはまっていることが、トランス排除が表面化しだしたところではっきりと分かった。

 

何しろ、当事者が、非当事者の想像や誤解に基づく部分を2年以上も訂正し続けたのにダメだったのである…。そもそも性同一性障害が非病理化されて以降の法的な枠組みについて、何かまとまった提起や目標が当事者から提示されていたわけではない。

 

火のないところに煙が立って、目標がどうも茫漠とした、「安心」を賭け金にした排除的な議論がずっと続いて再生産されている。しかもこの件が注目に値するのは、海外でも全く同一の状況があることだ。

 

ジェンダー論の概念を用いて様々に作文しつつ、非当事者ゆえにリアリティを持たない人々の錯視と誤認を誘発させながら、ついにトランス排除言説はフラワーデモにまで越境しだしたことが当事者の口から指摘されている。

note.comわたしはこれには参加していなかったが、果たして参加していたら何が言えたか、とっさに反論が出来なかった可能性はとても高い。恒常的に理論武装しないと、かえって反論した際の不備を、喧伝の材料にされかねないという罠がそこにはある。

 

そして、宮台が指摘している通りなのだが、彼ら彼女らの言動には、何をしたいのか、という最終的な目標が欠けている。あるものは、主観的な情緒的不安を埋めるための感情の発露と共有がもたらすカタルシス

 

それが他者の社会参加を阻むものだという指摘には耳を一切傾けず、誤った風説がネットをかけめぐり、当事者からの性別移行と実際の生活上の問題についての説明(これを常に要求されることが既に問題なのだという喝破は当のフェミニズムから行われてきたはずだ)は、避けられてしまう。

 

トランス排除をしたい人達が当事者の言葉に触れると何をしたがるのかというと、女性専用スペースにトランス女性が立ち入らないという言質を取ることだけで、会話すればするほど利用されかねない不誠実な一群になりつつある。

 

真理を知りたがらないがゆえに、当事者の言葉を正面から聞かない。

ただ、あるのは不安を埋めるための情動の共有の欲望だけ。

 

それは現実としてトランスフォーブが増える素因にもなるし、トランスへの包摂的な立法への抵抗が増える可能性すらある。そのことにも目を背けているから、国際社会から日本へ求められている、トランスジェンダーへの制度的な人権侵害の指摘も参照しないという状態になっている。

 

この様相は、本当にネット右翼がやってきたことと実に似ているのだ。

自分が触れていない現実を見て、議論を組み立てるのではなくー。

 

自分の不安や排除感情に正当性を付すために「事実」を探しに行ってしまい、時には海外の当事者団体の主張をミスリードな紹介の仕方をするというところまで含めて、だ。

 

悪いことにこの現象は海外、ことにイギリスでも起きているので、彼ら彼女らのカウンターパートが出してくる風説や、事実の過度な一般化が再生産されてくる。このありようは、右翼メディアのやってきたこととも変わりがない。

 

だが、問題はその指摘は決して届かないというところなのである。

ひとつひとつのデマや誤解については、訂正を入れ続けるしかないし、あまりにもためにする議論は強く否定するぐらいしかやりようはないのだけれど。

 

何とも頭が痛いのは宮台真司の指摘した情動の構造は、イシューを横断して再現性があるということなのだ。一見、それなりにもっともな論点を提起していたかにみえる人権言説の担い手が、全く予測してなかったところにランダムに火をつけてしまう可能性があるのだ。

 

いったい、こんなことになってくるともう、誰の言葉を真に受けたらいいのか、さっぱりわからなくなって考えてるだけで、ストレスでおなかが痛くなってくるし、すさまじく頭が疲れてくる感じがするーまるで二日酔いの次の朝のように。

 

また、こうして書いているときもまた、私が「感情の劣化」を迎えている部分はないのか、と真剣に最近は悩んでいて、とうとうツイッターで何かを書くことができなくなってしまったのだけれど。