ゲロゲロ日記orz

ツイッターで毒に当たってお気持ち濁流マーライオン。読んで不快になっても100%自己責任だ。ゲロは責任を取らない。

フェミニズムは「安倍政権倒閣運動の鉄砲玉」でいいのだろうか?

つらつら考えてた。

 

オンラインのフェミニズムがいつの間にか、「女性無罪!オスガキ間引け!」になっちゃったのってどこからなんだろうか、と。

 

ツイッターレディースが出てきた頃が分岐点だった気がする。

 

あの段階に至る前ぐらいまでは、まだ辛うじて内省も内部批判も届く余地はあったから。ポリコレが内側に適用される余地はあった。

 

ツイッターレディースが何だったのかを考えると、その成立の背景には、反差別・反ヘイトの運動で持ち出されてきた定式、

 

・「マイノリティによってマジョリティを傷つけることはできない」

 

・「差別はマジョリティとマイノリティの軸で起こる(それ以外ではどう暴言を吐いても、暴言であって差別ではない)」

 

が背景にある。フェミニズムの理屈だけで成り立ってきたものではない。

このテーゼを掲げてきたのは、反ヘイト運動=C.R.A.Cだ。

 

もともと、フェミニズムの内部には、こういう「気分」が時々出てきたことは確かではあるけど(SCUM(The Society of Cutting Up Menマニフェストとか)。

 

だが、そうしたものが持ち出されるのは、現在の論法から過去が持ち出されてるのであり、過去から積み上げて思索や思想を継承しながらなされてきたことではない。

 

その点において、日本語話者で構成されるツイッター圏には重大な欠落がいくつもある。トランスヘイトがいきなり燃えてくるのもそう。

 

ジャニス・レイモンドとかあの辺の誤りを見ていれば、あるいはその前の女性同性愛者を「ラベンダー色の脅威」とかほざいた差別主義者の言動を見ていれば、ブレーキがかかったはずのことがかからなかった。

 

「断絶」は明白だとは思ってる。もっと言えば、今、日本語圏ツイッターで「フェミニスト」と名乗っている人は、フェミニズムの過去の蓄積を決して十分には参照してない人だらけで、一種の「ブーム」に過ぎない。

 

さて、このブームがどうして起こったのか?

そこに「フェミニズム」が乗ってしまうことには問題はないのか?

前置きが長くなったが、本稿の主題はそれだ。

 

2010年代は「社会運動の時代」だった。福島原発事故が付け火になり、続いて、メディアが特定秘密保護法でお尻に火がついて、第二次安倍政権倒閣キャンペーンの団幕を掲げるようになってからの流れがある。

 

この10年間は、メディアが社会運動を欲していた。その前の2000年代の冷たさとは裏腹に。自民党=安倍政権を打倒するための社会運動勢力糾合の流れの中で、メディアはジェンダーにフォーカスを当て出し、左ウィングを伸ばす形でフェミニズムが注目されるようになった。これは単純に、今までは日和見をしてきた既存社会の構成部分が、自己の生存が危うくなったために、秋波を送り出した程度のことだ。

 

オンラインでのセクシストな男性からの攻撃が日常化している環境とも相まって、そ子に対抗する流れの中から、ツイッターレディースが生成してきたけれど、フェミニズム自体が追い風を受けていたからこそ広まった現象だとも思う。ことに実名で参加する大学教授、弁護士、活動家の存在は大きかった。

 

ああいう集団が出てくれば下火になりそうなものだけれど、仁藤萌乃さんとコラボ、石川優実さんとKutoo、伊藤詩織さんの事件とMetooなど、トピックは尽きずーこうした実名で活動する人たちが注目されるたびに、流れは継続し、一般の女性が多くフェミニズムを語るようになった。同時に、悪貨は温存される余地が出来てしまった。

 

男女二元論・強制異性愛社会・家父長制への批判がフェミニズムの本領であった。

そればかりは、第二波だろうが、第三波だろうが、通底するテーマだったはずだ。

 

性差別はシステムとして存在しており、決して個々人を批判すればいいというものではなく、それどころか、女性じたいがその枠組みにはめ込まれて、システムの再生産の過程の中にいるということ。これは、理論的にベル・フックスをはじめ、多くのフェミニストが解き明かしてきたことでもあった。

 

そうした流れに、今の日本語圏のオンラインフェミニズムは逆行している。

 

女性集団の中でも最大のシスヘテ女性の利益の最大化であって、そうしたことをすることが、しばしば女性集団内のマイノリティをさらに周縁化したりすることには十分な注意が払われて来なかった。

 

この部分ばかりは、別に反ヘイトの運動からの影響の悪い部分とばかりは言えない。

 

90年代などは特に如実だったけれども、そもそも日本のフェミニズムをリードしてきた大看板の上野千鶴子などは、発達障害を抱えた児童への失言をしたり、同性愛者への無理解を露呈してきた。歴史認識問題では疑問符を付されることもあった。移民問題では、移住連から公開質問状を提出されるまでに至るほどの失言があった。

 

彼女はある意味で象徴的な存在だ。ジェンダーの問題領域をジェンダーの問題領域としてだけ成立させてこようとしてきたふしが大いにある(当人からはきっと異論があるんでしょうけど)。

 

それをやった場合には、女性集団内の抑圧は存在しないことになる。この立ち位置はアメリカで言うなら、ベル・フックスに批判されてきた、かつての第二波の中産階級の白人女性フェミニストのそれに近い。

 

ステューデント・パワーやベトナム反戦運動の爆発や、公民権運動の高まりの中で、社会運動に参加しながら周縁化されてきた経験を持った女性たちが立ち上げた第二波のフェミニズムは、社会正義を求める運動の中ですら、自分たちが平等に扱われないという原体験を持っている。日本のリブに参加した女性にもそういう人は多かった。

 

だからこそ、人種問題なり資本主義の問題なり反戦の問題なりを「男の領域の問題」と見做して警戒する態度が生まれ、それが「社会のすべての問題の根源には性差別ー家父長制の問題がある」というラディカルフェミニズムの生成にもつながった。あれは悪い意味で共産主義運動の鏡像にみえる。

 

プロレタリアー資本家の抑圧関係こそが社会的不平等の起源で、民族だの人種だのジェンダーだのは、共産主義社会にあっては存在しえない、という立ち位置から、結局はマイノリティの訴えを内側から圧殺してきた、恐ろしく権力的な言説。そのジェンダー版にひとしいものを作り出しつつ、アメリカでの第二波は瓦解しているのだけれどー。

 

そうした論理の組み方をすると、結局、女性集団内部の矛盾は「男性」という外部に投影されてしまう。女性集団内部のマイノリティがいかにフェミニズムを愛し、フェミニズムの中の民主的な公正さを求めようとしても、却下されてしまう。なぜなら内部には矛盾も抑圧もないはずだからだ。

 

「女性は一個の被差別階級である」といったときに、女性がさまざまな属性からの複合差別をうけることが多い交差性の中で息づいていることは忘却されやすい。

 

そうした内部的な抑圧について言及したりすると、ひどい場合には女性集団の団結と社会的権利の獲得を妨害する行為だとすら捉えられてしまう。

 

こうした「切り離し」を演じるきらいが、上野にはある。一番直近だと移住連から問題提起された話だけれども、果たして、「女性」を一つの階級としてみるならば、日本へ移住してきた女性の権利を考えないことは、フェミニズムの名においてやっていいことだったか?

 

人間の移動の権利や、そうしてきた場合にも忍び込んでくるジェンダーの問題(国際結婚だの、女性の労働だの、既存の問題提起だけでも膨大な数量があるじゃないか)について、連帯と平等を求めるのがフェミニズムのはずじゃなかったのか?

 

それができないのが日本の主流フェミニズムの悪癖でもあった。

 

こうした問題提起や言及への反発は、こんな表現で防衛機制として提出されてくる。

 

・「女性差別は最後まで残る差別」

・「これまでにも散々にフェミニストはありとあらゆる社会的公正を求められてきたが、私たちはいつまでwhataboutismにつきあえばいいのか?」

 

眼前のミソジニストや、ジェンダー問題を矮小化しようとして来る男性の左派・リベラルとのイデオロギー闘争に明け暮れるうちに、「自分が加害者になりうる/差別構造に乗っていて、ある面では権力を持っている存在である」と認めることが、とうとう、オンラインのフェミニストにはできなくなり、硬直化しているのではないか。

 

ところが。時代の風は、今も一貫してフェミニズムに吹いている。

 

どうも事情が日米で似ていそうなのだけれども強力に反動的な政治家が登場したことによって、左派・リベラル陣営の結集が急がれ、使えるものなら石でもクソでも使おうとする方向へと対抗陣営も拙速になっていて、その「鉄砲玉」にフェミニズムが「流用」される流ればかりがある。

 

そうした流れの中にある限りは、フェミニストトランスジェンダーを差別しようとセックスワーカーを攻撃しようと、たいした問題としてはメディアに取り上げられてこない。

 

こんなずぶずぶで無批判なメディア謹製のフェミ・バブルに乗っていたら、差別がない/内部的にも民主主義が担保されているフェミニズムという、もっとも必要なエッセンスが永久に欠けたものへと変質していき、ブームが去った時には、多大な分断ばかりが残ることになって終わり、そのあと数十年の冷え込みが始まるのではないか、と危惧している。