差別は二度美味しいらしいー泡の戯れ
リベラル家庭で育った妙齢日本人女子が「ネット右翼」になるまで
勘弁してもらいたい、と思う。心から。
落としどころのないやるせなさが、王谷さんと古谷さんへ浮かんだ。
私はあと何度、こうした文章を目にすればいい?
どちらも、国籍と民族性、両面でマジョリティ性を持っている人間がカウンターパートに語りかける文章だ。ネトウヨになりたくない/留まりたくないマジョリティにとって有益な文章なのかもしれない。
文章の付加価値は、自分がネット右翼だった経験から掘り起こしてる点から調達された説得性にあるが。
差別はマジョリティにとっては二度、美味しいらしい。
そういう乾いた感想だけが残った。
一度目は、ネット右翼をやって、共感のエコノミーの中で利益を得て。
二度目は、また違う共感のエコノミーを生きる。
ふたりがネット右翼だった時だけが、国籍ー民族双方にわたる優越感という利益をマイノリティをダシにして得ていた瞬間ではない。
「私も昔はネット右翼だった」と語り起こして文章を書く場を与えられるのもマジョリティだけが引き出すことができる利益をマイノリティから得てる瞬間ではないか。
匿名で差別を煽動し、糾弾されることも相手と向き合うこともなく。
都合の悪い時には透明で。
発言に需要があるときだけ実名になる。
あまりに非対称すぎないか?
二人がネットに書き込んだ言葉は、誰かに影響したろうか。
分からないだろう。
自分は匿名、相手は不特定多数。
責任は確定できない。
それは責任がないということじゃない。
責任の取りようもないことをしでかしたということだ。
水源地へ水銀を捨ててきたようなものだ。
言葉には発し手がいて、受け取り手がいる。
具体的な人間がいる。
も少し、言葉を放った対象となる人間を人間扱いしてもいいんじゃないのか。
それは思考実験の対象となる抽象概念か何かではないんだから。
以上、二人がネット右翼だった時期のことじゃなく。
それを振り返った時の筆の運びについての感想である…。